天神堂に親父を思う

 「天神堂(おてじんさん)に親父を思う」

 

今は昔、ほかでは知らぬが金沢では、長男が生まれたら、その子の頭が良くなるようにと家に天神様を祭る風習があった。30×75×17センチメートルの木箱に木製の鳥居や門や祭壇、極彩色の泥絵具を塗った泥人形が収められている。


天神堂(おてじんさん)

 毎年十二月二十五日になると親子で組み立てる。木箱を裏返しにして台とし、その上に組み立てるのだ。

 まず境内に入ると木端葺(こばぶき)の門をくぐる。杉の木・燈篭、紅白の高い幟の間を通り鳥居に着く。内庭には左右に太鼓を打つ神官がいて最後に千木を高くかかげた神明造の祭壇に達する。両脇に狗犬を置いた四段の木階(きざはし)を上ると、前に右大臣・左大臣がひかえ、奥には左右にお稲荷様が守る神殿がある。この扉をあけると天満様の神像が拝めるという具合だ。注連(しめなわ)と燈だけは新調し、お神酒を供えて祈るわけだ。

 私は大正六年の生まれ、第一次世界大戦・ロシア革命、翌年は米騒動と国の内外は混乱の真最中。当時三二歳の親父の日給が四十六銭で米一升が五十銭となった時代。立派な天神堂は買えるはずがない。財閥は欅(けやき)だが、私のものは杉だ。

 生家の材木町四丁目から長い暗い街道を七丁目まで下ると、当時の繁華街、懸作(かきづくり・今の橋場町)に出る。その角に、その所だけがガス燈でポーッと明るい砂崎という小間物屋に売っていた。雪の中を親父が肩に担ぎ、横に並んで藁深靴に綿入れの着物姿、凍える手をこすりながら、それでも嬉しくて嬉しくて小走りに家に帰った夜のことを今もはっきりと覚えている。


奥宮には菅原道真泥人形

 なお、鳥居に明治神宮とあるが、これは親父が書いたもの。当時、神国日本の象徴、明治天皇を祭る心と天神様を拝む心とが、ないまぜになってしまった当時の人の神に対する考え方が、また面白いと思う。

 

石川保険医新聞 1990年1月号

之は亡き父 弘が生前書いたものである・思い出のために

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